今日はなんだか寒いですね。早くストーブ要らずの暖かさになって欲しいです。
かと言って夏は嫌だけど‥、今年は日傘があるから去年よりは動きやすいかな。
では昨日のラクガキ↓
ハイゼは目が死んでるから、ルーナがハイゼを助けるというストーリーを作られたことが有ります。(ハイゼ主人公じゃないから破綻しましたが)
アイビスに砂漠の素材が無いとは……!!!!
ハイライトの入れ方とか考え中‥。技量によって変わっていくとは思いますが。
試験的な事もばんばんやっているので着地点がマジでわかりません。
今日はとりあえず何もないのでゆっくり過ごしたいものです。
追記
これは酷い。
これは何年も前の暗黒時代の私ですよね。今はこんなんじゃないですよ‥!!
闇属性でも善良で穏やかなテスタメントさんもいるんだし、確かに闇属性っぽいけどこんなんじゃないです。とっくに脱メンヘラしとります。
日頃から他人に危害を加えるほど暇じゃないしエネルギッシュでもないしな、やる事沢山あって他人に構ってる暇はそんなにないですから。仕事じゃないけど。
とりあずメンヘラはヘラったらそのエネルギーで人力発電(自転車をこぐ)でもすればいいんじゃないですかね。
追記
な、なんだ、適当に流していた動画でランダムに流れてきた小説の朗読が良かった‥。
「死肉を食らう男」だったかな?
学校で溺死者が出て、相部屋の男がどうやらその死肉を毎夜食べに行っているらしいという話。
主人公はカニバリストと相部屋の浮世に何だか嫌気がさしている男子で、最後はカニバリストを追って真相を突き止めた為に(?)死亡するのですが、全ての憂いから解放された喜びを感じる終わり方でした。
生は悲劇、死は喜劇とはこのことなんでしょうか。
このところのろのろと呼んでいるチェーホフについての本でも、チェーホフの劇は最後に主人公が必ずと言って良いほど拳銃自殺をするのに、何故喜劇なのかが論争されています。
何だろう、霊魂をオバQ程度に考えているんでしょうか。いや、嘘です。
確かに、終わることで一連の流れは物語になり完成するけど、終わらなければこの時間は一体何なのかも定かではない。
夏目漱石の猫も話を終わらせる為に、物語にする為に溺れて死んだ。
死を回帰と考える人もいる、私だけど。
この世界は全ての命が正しく勤めを全うし、天の父と呼ばれる存在の元へ帰るまで終わらない劇だと考える。
劇の終わりは常にモイライに邪魔され引き延ばされる、父は悲劇の中から最良の事をしてくれるがそれ以上は出来ない、神は運命の女神に勝てない。
しかし、神さえ勝てない運命の女神に勝てるのは人間だ。人間の強い意志だ。
どんな仕打ちに遭ってもひたむきに努力し八つ当たりをしない者は悲劇を糧とする。
故に、運命は強い者を助ける。
運命に打ち勝った者は終焉という喜劇に帰る。ちゃんとした死だ。
運命に負けて他人を呪う事しか出来なかった者の魂は輪廻する。幾度目かの生だ。
太宰治の主人公と悪友も生と死の喜劇と悲劇について遊びで言っていたけど、この考えの元は何なんだろう? 元とかは無いのかな。それぞれそう思うってだけなのかな。
死生観にはドラマ性やシナリオ上の役割があるから、字面やイメージだけで死は悲劇とは言えないのは解っていたけど、決定的にどうしてなのかを知らないのは私が凄く無知だからなんだろうな‥。
チェーホフというハムレット大好きなロシアの陰鬱で政治的に芸術の表現が縛られ続けた国で育った人の陰鬱な劇が何故喜劇なのか、今のところ謎です。